
この映画は中年の僕たちの物語だ
この物語は中年の僕たちの物語だ。
結婚に失敗したあなたの物語だ。
異性に貢いでしまったあなたの物語だ。
病気を患ったあなたの物語だ。
子どもを奪われたあなたの物語だ。
子どもを得られなかったあなたの物語だ。
日々、節約せざるを得ないあなたの物語だ。
毎日の生活に追われるあなたの物語だ。
東京から都落ちしたあなたの物語だ。
とにかく僕たちの物語なのである。
「平場の月」の「平場」とは、お笑い芸人が使う、ネタ以外のトーク中の事を指す。
なんでもない時間、場所、人、との意味で作者は使う。
その意味のとおり、朝霞市というなんでもない・・田舎でも都会でもない街の、普通に病気をして普通に人生を失敗した・・・何でもない中年の、何でもない時間を切り取った物語だ。
物語の骨格は「病で死に行くヒロインとの恋の物語」という、ありきたりで、擦切るまで使い古されたテンプレートのストーリーだ。
しかし、その恋の物語の主役たちを50歳というおっさんとオバサンにするだけで、途轍もなくリアリティ溢れ、血の通った、共感できる題材となるようだ。
ちなみに私は普段オバサンという言葉は絶対に使う事はないが、敢えてそう書きます。
そう、死病も、取り消せないワケアリな過去も、昔の恋人も、過去の栄光も、落ちぶれた現在も、色々な物語の味付けとして使われる様々な事が、50歳という年齢にするだけで「あるよね」という一言で済ませられるリアリティを得るのだ。
100万人のうち1人に有り得るかもね、というストーリーが、10人に一人くらいに有りそうなストーリーになる。
あらすじ(ネタバレ)
物語のあらすじを少し紹介しよう。
結婚に失敗し、子や妻と別れ、親の介護の為に地元に帰り、印刷会社でうだつの上がらない生活を送る男、青砥。
青砥は健康診断で病院を訪れた日、初恋の相手、須藤葉子に再開する。
(後に分かるが)須藤にとっても青砥は初恋の相手であり、須藤は(ちょっと頑張って)青砥を「月に一度の励まし合いの会」を二人でしないか、と誘う。
そうして二人の距離は縮んでいき、やがて恋愛関係になった二人は、病と向き合い、「夢みたいな事」まで想うようになるが、須藤の命は尽きてしまう。
正直に話そう。
この物語の恋愛描写はなかなかに厳しい。
美しくは描いていない。
これは恐らくわざとだ。
須藤への欲望を満たそうと、青砥がのそっと近づく、あのキモさ。
チンチンに支配された瞬間の男の目を見事に演じ切っている。
そりゃそうだ。
若いガキどもならいざ知らず、俺たちは愛と性欲とは切っても切り離せない事を知っている。
自分がキモいおっさんという事も知っている。
相手がオバサンという事も知っている。
しかし、それでも15歳のガキと同じような気持ちで相手を好きだという瞬間はあるし、セックスしたいという瞬間もある。
そう、僕たちはどうしようもなくキモいんだ。
キモいのに、お互いを愛せるんだ、という、若い子たちが馬鹿にするこの事実を、しっかりと描いてくれている。
そして、正直なところ、恋愛的な要素は、この映画では物語を進めていく上でのガイドレールでしかない。
生と死と、後悔と希望と、失敗と性交と・・みたいな事を、生活を、つまり「平場」を描く為の起爆剤でしかない。
淡々とした日々の描写が凄い
青砥が仕事で印刷物を整える場面。
印刷物の色が出ているか確認しているあの目。
やはり仕事をしている姿は、どうにもカッコいい。
自分のやりたかった仕事ではないだろう。
恐らく生活の為に仕方がなく就いた仕事だろう。
でも、やる。
やるんだよ、オッサンは。
それは須藤もそうだ。
立教大学を卒業後、証券会社に勤めた彼女にとって、病院内の売店の店員・・というのは、納得できる仕事ではないはずだ。
それでも、シフトにすら責任感をもち、仕事をこなす。
現実として、主婦歴があり、キャリアをロストしている50歳の女性に実力を発揮できる仕事など探し当てることは困難だ。
青砥だってそうだ。40を過ぎて他業種に転職する男に、割の良い仕事などあろうはずもない。
それでも、二人とも絶望はしない。
それぞれに日常の中に彩りを添え・・・例えば青砥の自分で作るお弁当。
須藤のアパートの片隅に植えたハーブ。
そういうモノを慰めとして、毎日を繰り返している。
その、何でもない日々の描き方が、この映画は本当に秀逸だ。
秀逸なんて言葉は安っぽくなるほどに、素晴らしい。
青砥の安っぽい自転車。自転車の停め方。
大量生産だが作りの良い、ユニクロのポロシャツ。
シンプルで安い家具。昨日の少ない家電製品。殺風景な須藤の部屋。
その部屋で二人で飲む、二人で買った、安い酒。
そのお酒を、青砥にはグラスに注ぎ、自分の分はマグカップに注ぐ。
それは日常から、洗い物を少なくしよう、としているクセだろう。
ちょっと贅沢に、利尻昆布を入れて作る湯豆腐。
その時に青砥は同僚の爺さんに言われる。
「誰かが一緒にいてくれるってことは、当たり前じゃねえんだよ」
そういう、今の40代50代なら何でもない日常。そんな日常が、朝霞の町にうまく馴染み、温かみのある、懐かしくもある、そういう景色となっている。
匂いまで感じる。
僕もこの映画を観て以来、貧乏で、家具もなくお金もなかった、仙川という町の古い2DKで同棲していたことをよく思い出すようになった。
これは僕たちの日常だったし、今の誰かの日常だ。
何者にもなれなかった4人
中学生の頃、あれだけ粋がっていた4人が、何物にもなれず、ただのおじさんとなる。
それはほとんどの男に訪れる、約束された未来だ。
どんなに女にモテテも、どんなに頭が良くても、どんなにスポーツが良くても、50歳となれば99.999%の男は、ただのおじさんになる。
それを認められない物だけが、何者か気取りの何者かになるだけだ。
中学生の同級生と飲んでも大して話題などなく、堂々巡りの思い出話と、薄くなっていく髪と出ていく腹の話で盛り上がる程度だ。
ただ、そんなものが上等な時間だ、と思えるのもオッサンの特権だ。
若いうちはオッサンのそういう飲み方を「ああはなるまい」と思って軽蔑する。
「オレはヒトカドノオトコニナル」などと、のたまうのだ。
みんなそうだった。
そして、悟る。
ああ、オレはただのオジサンになるじんせいなんだ、と。
おっと、妄想が進んでしまったけど、同級生4人で飲むシーンは、そうやって色々と思わせるシーンだった。
本筋とは逸れるけど、味付けとしてはとても良かった。
神がかっていた井川遥
それにしたって、井川遥は素晴らしすぎた。
ノーメイク風のメイクで、どう見ても人生に躓いた、パート暮らしの50歳に見えた。
もちろん美しい。美しすぎる。
しかし、ギリギリあり得るかもしれない、という美しさだ。
そして、なにより演技。あの、演技。
視線だけで感情を読ませる。
口の端だけで語る。
呼吸のタメで、無言で決意を語る。
正直なところ、若い頃の彼女しか演技を見たことが無かったので、これほどまでに凄い演技が出来る人だとは思っていなかった。
いや、恐らく、今のテレビドラマのように、コミカルで大袈裟なキャラクターや演技が求められる役柄では彼女は輝かないのではないか。
今回の須藤の様に、ごく普通の人の、当たり前の演技をさせたら、もしかしたら同年代で並ぶ者のいない女性なのかもしれない。
喋り方。間。視線。とにかく、顔の演技だけで画がもつ。
もちろん、半端ない美しさがそれを担保している、というのはある。
それにしたって。
それにしたってリアリティが半端ない。
皆さんの目にも、彼女が自分の愛する女性にダブって見えたのではないか。
小声でぶつくさ喋るのに聞き取りやすい声も、本当に良かった。
30年ちかく前から彼女を知っているが、今やっと、ファンになってしまった。
それくらい良かった。
いきどまり
そして最後に。流れる「いきどまり」。
星野源のミックスボイスが美しすぎる。
あれからずっと聴いてる。
忘れられぬ 呪いを今
君にあげる 嘘 ただ 忘れないよ
もうここで号泣だ。涙が止まらなかった。
「嘘」
というやつ。
そういう強がりの嘘。
あああああ須藤おおおおおおお!!!!
※ここから壊れます
須藤おおおお!!
なんでお前は幸せになろうとしないの?どうして?俺はお前が(なんでお前って言うかって?それは(略))幸せになればなんだってしたのによおお!!
こういうの、女の人は本当にそう。
わかってない。
男の子の事を全然わかってない!!
男の子っていうのはね、好きな女の人が幸せになるなら命だってかけられるし、人生だって捧げられるのよ!
男の子はみんなそうなの!
だから頼って欲しいの!男の子はね、ナイトになりたいのよ!
報酬は好きな女の子の笑顔だけでいいの。そういうもんなの、男の子って。
・・いや、本当にそうなんですよ。
しかし、本当に2025年の最後に、この映画に出会えてよかったです。
薬師丸ひろ子はわからなかったけど、オヤジも、祖父も54歳で死んだウチの家系を考えると、もしかしたら僕の寿命もあと10年ほど。
10年、平場を大切に生きていこう、そう思えた映画でした。

